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偉大な親 8 (私の先天性股関節脱臼)
このシリーズでは、自営業・治療家・親として・働く母として・・・
『柔道整復師・鍼灸師である父のこと・長年一緒に父と働いてきた母のこと』
自分の今後についても少し考えるべく整理して記事にしています。

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このシリーズの初めの頃に記載したほうがよかったかもしれません。

私自身のことですが『(左の)先天性股関節脱臼』で生まれてきました。

医療従事者の親がわが子に試してみたいことかもしれません。
私もいまだに新生児ちゃんをみると試したい衝動にかられますから・・・
父は新生児の反射を種々試してみたようです。

女児に多い先股脱ですが、父にとって第一子の私が生まれ、
新生児反射をみて、試しに整形外科領域の検査も試み
わが子の股関節の開排試験をしてみたら

・・・あら!股関節が開かない!
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※開排試験:
赤ちゃんの股関節は自然に両脚でM字を描いています。
赤ちゃんを仰向けに寝かせ、床側に膝を押すと
まだ関節が柔らかいので膝が床に着くはずなのに、
先股脱の場合、股関節を痛がって膝が床につかない。

※先天性股関節脱臼(略:先股脱<せんこだつ>):
骨盤の大腿の骨を受ける部分の臼形成が浅く、
大腿骨の骨頭が骨盤から脱臼して生まれてくる。
脱臼を放置して成長した場合、股関節に体重がかけられず
のちのち成長後歩けなかったりする。
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父はなくなくわが子である私に
リーマンビューゲル装具を装着したそうです。

母は
「こんな小さい子にそんな動きを制限してしまうものをつけてしまうなんて
・・・可哀想じゃない!泣いてるじゃない!はずしてよ!」
と、何度も父に泣いて頼んだそうです。

父は
「はずしたまま成長したら、この子は将来歩けなくなるんだぞ!
どっちが可哀想だ!」
と何度も説得したそうです。

まぁ、たしかにたくさん夜泣きもしたそうですよ。
装具もはずして欲しかったでしょうね。ちっちゃい私も。

でも、赤ちゃんが乗るよくある歩行器に乗って
装具をつけたまま、あっちへこっちへ「ガー♪ガー♪」と
楽しそうに移動をしていたそうです。

おかげで脚の筋肉もちゃんと成長しました。

ちなみに、2歳までその装具をしていたらしいです。

その後も問題なく、立て・歩け・走れています^^
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そのまたその後の成人の私。

この仕事についてから(鍼灸マッサージ)、
中腰や立ったままの同一姿勢が増えたので、
ある年の雪かきをきっかけに、立位の疲労をすると
臀部(お尻)痛(梨状筋症候群)が出るようになりました。

痛くなったときは、実家では父に鍼してもらえば、
そして鍼灸師になった今では
自分で鍼すれば、痛みはすぐなくなります。

歩けないほどにはなったことは今までありません。

しかし幼い頃から、
・急激に体重が増えた時
・妊娠出産の時
・・・には、股関節痛には注意せよ!

と父に警告を受けているので、今後も注意が必要です^^

特に今後は、変形性股関節症かな・・・。

股関節は相変わらず硬いので、
筋力をつけることと柔軟性をつけておくことは私にとっての課題です。

長男を妊娠中、股関節前面に痛みが出たこともありましたが、
産後の現在はそのようなことも臀部の痛みもありません。

先股脱を持った方で、お産の際に
股関節が脱臼してしまう方もいるそうですが、
私は無事にお産することが出来ました。

(産科の先生に「先股脱のこともありますから、産後は安静にしてね!!」
と充分注意され、極力安静にしていたのも現在の痛みのない状態に
つながっていると思います。)
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そして、そんな私は、
やっぱり父や母を選んでこちらへ来たのかしら?
・・・と、思ったりします^^

(つづく・・・次回はまたわれらファミリーに事件が!)
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偉大な親 7 (けがの功名)
このシリーズでは、自営業・治療家・親として・働く母として・・・
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自分の今後についても少し考えるべく整理して記事にしています。

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ボッキリ折れた息子の肘の骨。

手術場まで入れていただき研鑽をさせていただいた
整形外科での10年の経験から考察しても、
どんな手術を整形外科医がするのかもわかっており
観血手術でボルト固定すると言うのが妥当だとも判断もできます。

しかし、小さな息子の体とこれからも骨も今後成長することを考え
ボルトやメスを入れず、徒手整復し自然に治癒していくほうがいい。

難しい骨折・脱臼の徒手整復も整形外科で10年間で何度も経験しています。

「俺が治してやる!」  ・・・きっと父はそう思ったに違いありません。

弟は父の手で整復され、父の整骨院の応接間に
絶対の安静で入院のような生活となりました。
(ちなみに整骨院ですから、入院施設はありません。)

父と母は整骨院の診療のかたわら
祖母・祖父と交代しながら、弟にずっと付き添っていたと思います。
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かくして、弟の骨折は無事治りました。

ひどい骨折ではあったけれど、リハビリも父が十分に行い、
その後の著しい成長の時期も何も問題なく成長しました。

そして、その後の成人し、
30歳になった弟の肘も、何も問題なく動かされています。

ちなみに、弟はその後、足首を骨折し、
同じように父の治療院に入院生活を送ったこともあります^^;
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たぶん、このことは、保育園でもおおいに噂になったでしょうし、
その後の整骨院大繁盛へのきっかけにも
なっていることと、私は想像しています。

(ちなみにふざけあった弟の保育園の同級生は今でも弟の大親友です。)
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私も小学校6年生の時、
体育の跳び箱の授業での台上前転で失敗し、右手首(尺骨)を骨折しました。

その際も父に整復してもらい、もちろんリハビリもしっかり。

高校生の時は、授業の球技で突き指から
左小指のPIP関節を骨折しています。

しかし全て父が整復し問題なく現在も動いています。
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弟も妹も私も、そして、親戚も家族みな、
他、捻挫・挫傷をはじめ、あらゆるケガをしてきましたが、
(叔父が顎がはずれた際も父が整復しましたねぇ・・・)

ゆえに父あっての元気な私達の暮らしとなりました。

(つづく・・・えらい事件がまだまだつづくたらーっ)
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偉大な親 6 (やんちゃ息子)
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父の開業1年目だったと思います。

私の2つ年下の弟の話です。
その頃弟は保育園の年中さんだったと思います。

とある日、登園時刻がすぎてみなが教室に集まる時間なのに
保育園の担任の先生が園内を探しても弟がみつからない。

たしかに登園した時、うちの母とも挨拶したはずで、
おかしいなぁと思って探したら、
体育倉庫の中で隠れて悔し泣きをしている弟を発見。

弟の肘を見るとパンパンに腫れているではないですか!

保育園の同級生と園内でふざけプロレスごっこをしました。
その際、ボッキリ肘の骨が折れてしまったのです。

即、弟は父の整骨院へ運ばれました。
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その直後のことは、私も小学校へ登校していたので聞いた話ですが、
レントゲンをまずとってもらい、整形外科の先生も父も判断するに
これは手術せねばならないほどだ。というような複雑骨折だったそうです。

まだ5歳の息子。

さてさてどうする?柔道整復師の父!

(つづく。)
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偉大な親 5 (小さな広告塔)
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いよいよ土地にねざした鍼灸整骨院が開業されました。

その時、父33歳。母32歳。

開業当初来院者数がどうだったのか私には覚えがありません。
母が父を手伝い2人で行っていたけれど、
自宅2階の小さな治療院時代からの患者さんもあり
そこそこ父も母も2人忙しくしていた覚えがあります。

父の開業時小学校1年生となった私でしたが
それまで専業主婦だった母に2歳年下の弟と一緒にべったりでした。

ちょっとした寂しさもあり小学校から帰ってきて、
治療院の裏玄関から入り治療室のドアから
父母に向かって「ただいまー。」と大きな声で報告していた覚えがあります。

よちよち歩きをはじめた妹は、日中は保育園へ預けられ
夕方祖父祖母が迎えにゆき、帰ってくると治療室内をウロウロ。
患者さんたちのマスコットになっていたようです。

妹は鍼が大好きで、よく父に頭に1本鍼をうってもらって、
治療室内を歩きまわり「鍼は気持ちいいよ。」と広告塔をしていました(笑)
私が連れて行った予防接種の注射の時も、周りの子は泣いているのに
注射を見て笑っていました。彼女的には嬉しかったのかもしれません。
そのおかげか整骨院の患者さんも徐々にケガだけでなく、
鍼の患者さんも増えていったと思います。

小学校から帰ってきた私は
夕方から夜は治療室の隣の応接間でよく弟妹と遊んだり
友人を呼んで遊んだり、外へ遊びに行ったり、
応接間で宿題などをしたり、習い事へ行っていました。

習い事の送り迎えは、母が仕事の間を縫ってか
祖父が車でしてくれていました。

(母の家事もそんな感じで、ここ数年前に父の仕事の手伝いをやめるまで、
仕事の合間に行われていました。いつも忙しかったろうと思います。)

夕食の頃、祖母祖父と一緒に自宅へ帰り、
祖父祖母弟妹と一緒に夕食をとり、
お風呂も寝るのも祖父祖母、弟と妹と一緒でした。

祖父祖母がいなければ父母は仕事をしていけなかったと思います。

(つづく)
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偉大な親 4 (挨拶)
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悩んでみたけれど、せっかく意を決して
木を切った祖父の思いは無駄にはできません。

相談した勤め先の院長も
「事は成るようにしかならないし、
君には10年ここで積み上げた技がある。」と言葉を下さり、
10年勤めた整形外科を父は辞め開業する決意をしたそうです。

実は整形外科に勤めながら、自宅の2階の1室に少しづつ治療用具を用意し、
職場がお休みの日には、ご近所や知人の治療を少しづつ行ってきました。
頼ってくださるあてもあり、本格的に開業をしてみようと思ったそうです。
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ご近所整形外科さんには、治療院建設前に父母で丁寧にご挨拶に行き
「所詮、柔整師だろ。」とはねられるかと思いながら訪ねたそうですが、
まま受容していただいた感があった。・・・とその後母は語っていました。

今でも患者さんの紹介先や地域の関係する先生方などには
母は父の名で、お中元・お歳暮は忘れません。
これまた内助の功も奏しているのかもしれません。

今もたまに地域のスナックなどで父母が会う
ご近所整形の院長先生とは談話することも多いそうです。
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祖父が梨の木を切った年、私と6歳離れた妹が生まれました。

ちょうどその時の父の年齢は現在の私と同じ年。32歳です。

妹が生まれた頃に整骨院の建設が始まりました。

地鎮祭を行い、建設工事が始まりセメントが流され土台ができた時、
父と私の2人でその地へ入り、父が私に
「ここがな治療室。ここが待合い室。ここは応接間。ここは洗濯場・・・」
なんて嬉しそうに説明してくれたこと。

私が母の実家へ遊びに行き、車で父が迎えに来てくれ、
その帰りに夕日があたる柱がおおかた立った建物をながめ
「すごいだろー。段々おうちになってきただろー。」
と、とても嬉しそうだったこと。

・・・今でもはっきり覚えています。

治療院の骨組みができたとき、棟上のお祝いも
ご近所の方々をよんで行われました。
建物の上から餅をまき、盛り上がった覚えがあります。
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かくして梨畑に囲まれた立派な一軒家の整骨院が出来上がりました。
広い駐車場の頭上には、ぶどうの棚まであります。

駐車場となる場所で開業式も行われ大変なにぎわいでした。

治療室にある神棚の神入れの儀式の際、
父母が神棚に2人並んで向かい手を合わせていたのを覚えています。
その母の背中には、生まれた妹が背負われていたことを覚えています。

町のご近所さん、親戚、父母の知人友人、
父の勤め先の整形外科の院長、看護師さん、柔整師・鍼灸師の先輩・後輩、
自宅2階の小さな治療室からいらしてくださっていた患者さんなどなど。

どれだけの方が来てくださったのか、はっきり覚えていませんが
6歳の私はたくさんの人が来た・・・ということだけ覚えていて、
楽しかった・・・という覚えしかありません^^

(つづく)
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偉大な親 3 (祖父のこと&父どうする)
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前回の続きを書く前に、
祖父にも「パワフルですね」なんて言葉をいただいたので、
ちょっと祖父にも触れてみたいと思います。

祖父は大正7年生まれで、
以前記事にも記した私の鍼灸学校卒業式の前日に亡くなった
今年3月に7回忌を行った祖父です。

昭和の第2次大戦時、大東亜戦争の際には、
農家の長男ながら徴兵され東南アジアの戦場に出向いたそうです。
戦争に行って南十字星を見た。
・・・なんて話も祖父から聞いたことがあります。

農家でもあり体を動かすのが好きだった祖父は
亡くなるまで、やせマッチョでした。
そして、その右上腕には十円玉ほどの大きな傷あとがありました。

戦場のジャングルで赤痢になったとか、
キャンプを張っていたところを襲撃され、爆弾が投げ込まれ、
爆発した際の熱い何かの破片が右上腕を貫通し
野戦病院へ運ばれたけど、できる手当てもたいしたもんではなく
自分で貫通した傷孔にガーゼを通していたし、腕にウジもわいた。
・・・なんて壮絶体験も孫の私に語るような人でした。

祖父が戦争に行っている間に、私の父(祖父の長男)の姉である
祖父祖母の第一子である女の子を1歳にみたないほどで
肺結核でなくしています。戦争から帰りそのことを知った祖父は
それはそれはいたたまれない思いだったと思います。
娘の死を1人で受容した祖母もすごいと思いますが・・・。

だからか、祖父は基本的に厳しく頑固だけど、
すごく優しい家族思いの人でした。

そういえば、私の弟は、中学・高校ぐらいから
祖父とぶつかり合うことが多かったのですが、
私の弟が医大に合格した際、祖父は泣いて喜んでいました。
息子(私の父)が地域に根ざし信頼をもたれた人となったことと、
跡継ぎ孫が医師を志したことを知ってたぶん誇らしく思った事と思います。
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話は戻り・・・

梨の木を切った畑を見た父。
その時どう思ったのかは父に直接聞いたことがないので、
今度ゆっくり話す機会があれば聞いてみたいと思います(スイマセン・・・)

とにかく開業に踏み込む機会を祖父から父に渡されました。

しかし・・・ (母から聞いた話ですが)
父の整骨院建設予定地となった梨畑から
半径1km圏内に2軒、整形外科がありました。(尚、現在もあります。)
それゆえ、父は以前から自分の開業を考えた際、
その地に整骨院を開業してはたしてやっていけるだろうか?と悩み、
勤め先の院長にも相談したそうです。

院長もどうだろう?という反応でした。

(つづく)
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偉大な親 2 (父の開業話)
このシリーズでは、自営業・治療家・親として・働く母として・・・
『柔道整復師・鍼灸師である父のこと・長年一緒に父と働いてきた母のこと』
自分の今後についても少し考えるべく整理して記事にしようと思います。

☆〜☆〜☆
昨日の母の日であったのと
「働くということ」という内容で記事にしたのもあって、
私の母について→私の父についてと変換され
思ったことがあったので・・・。
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私の父はアナログな人なのでネットには弱く、
まして自分の事を書くなんてことはしない人だと思います。

でも、あの父の開業話や仕事のあれこれは
今も尊敬に値すると思っています。
そして数年前まで一緒に仕事をしてきた母も尊敬。

ちなみに話は祖母や母の語った内容が主です。
これまた父は自分のことを私たちには話さないので。
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私の父は埼玉で柔道整復師・鍼灸師として鍼灸整骨院を開業しています。

私が小学校に上がる年に開業したという覚えがあるので、
今年で開業して26年・・・といったところでしょうか?

尚、○○師会 支部長とその会の県の監査を20年以上やってます。
たぶん私の想像以上にすごい人だとは思っています。

柔道も4段とか。地域の柔道の普及にも寄与しているらしく
大会審判を行ったりしてます。(地域に寄与したことで昇段したとか)

他、開業して四半世紀ともなるとまさに「地域密着」
街の交通安全指導員や防犯をかってでたり(警察とも仲がよい)
よく最寄駅の駅員さんからも電話が来て
「先生、骨折した(脱臼した)お客さんがいるから来て!」と
現場に行き、応急整復手当までするような人でした。
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実家は元名主の旧家でその土地に暮らして父の代で13代目だそうです。
ゆえに祖父の時代まで農家。
祖父の時代は観光梨園を開いていました。

祖父はそこそこ学校の成績がよかった父に
「これからは農家も存続がむずかしい時代だ。
お前は農家でないことをやれ。」・・・と常々言っていたそうです。

高校・大学で柔道部に所属していました。
大学では体育会の会長もしたらしく、根っからの体育会系人間です。

父は大学受験の際、某大学と
大学の系列併設校の柔道整復師の養成学校を受験しました。

運良く両方合格したので、昼間は大学に、
夜間は柔整学校に通ったそうです。(・・・これも祖父のおかげ)

大学3年の時に柔道整復師の免許を取得し、
大学4年に周囲が就職活動に追われる中のんびりしていたそうです。

とある日、ある県内の有名な整形外科にどうしても勤めたくて
大学の学生服を来て、アポイントもなく突然その整形外科へ
「勤めさせて下さい!」と訪問したそうです。

後年、突然「勤めさせてください」と訪問した奇特な奴と、
職場の先輩後輩には有名だったそうです。
(父のお世話になった整形の院長の談話)

父は22歳でその整形外科へ就職しました。

父24歳で母と結婚。26歳の時、私が生まれています。
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確か昭和40年代に、アメリカのニクソン大統領が中国を訪れ
その際、鍼麻酔のすごさが日本でも報道されたそうです。

そのニュースをきっかけに父の勤めていた整形外科の院長から
「鍼が勉強できるやつは鍼を勉強しろ。」とお達しを出され、
父もいずれの開業にと、鍼を勉強することにしたそうです。

私が生まれた年に整形外科へ勤めながら鍼灸学校へ通い始めました。

初めは夜間部だったそうなのですが、その頃の父は、
職場の手術場まで出入りさせてもらえるような立場だったので
(術後の麻酔が覚めるまで患者さんに付き添いをしたそうです)
外来終了後の手術に付き添うためには、夜間部通学が無理となり、
院長が学校に直々に頼んで昼間部に編入させてもらったそうです。

朝から東京渋谷の学校(←学校がわかる)に通って昼から整形外科へ勤務。

父の勤務時間は以前の半分になり、ゆえに給料も半分。
母の後日談では
「正直に言ってその頃は、実家のおじちゃんおばあちゃんと
同居じゃなかったらやっていけなかった。」と言っていました。
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10年間、2時間もかけて車で毎日職場へ通い、
深夜に帰宅が多い生活ながら、父にとってその整形外科の職場は、
とても勉強になりとても充実していたので、
辞めようとは思わなかったそうです。
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私も幼い頃、毎年父母に連れられ、
父のお世話になった院長のお宅へ訪問させていただいた覚えがあります。
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ある日、祖父は同じ農業仲間とのお酒の席に
「お前の息子はいつまで遠くに勤めをしてるのか?
畑があるから土地もあるし開業したっていいだろうに。
開業するほどの力量がないのか?」
・・・・と言われたそうです。

カチーン(怒)ときた祖父。

後日、意を決したように祖父は
電ノコを持って、自分が何十年も丹精こめて育てた梨の木を、
道路に面する部分に小さな一軒家がたつほどの土地の分だけ
切ってしまいました。

そして父に言ったそうです。

「土地はある。開業しろ。」

(つづく)
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